木挽町のあだ討ち 読了
3月12日に、旭のサンモールシネマで「木挽町のあだ討ち」「レンタル・ファミリー」を見た。「木挽町のあだ討ち」は、銚子でやっていなかったので「どこで上映されているか、旭でやっている。銚子に来ないのか。」ということで旭まで銚子電鉄とJRを乗り継いで行ったのである。(その後、しばらくして銚子でも上映された。) 原作本は、映画の後で借りて読み始めたが、遅読でようやく読み終わったのが9月初旬となった。半年かかっているね。(借りものなので本を返さねば) 小説では、聞き手が聞いているスタイルですが、聞き手は話したりしません。映画ではその聞き手を柄本佑が演じています。当然セリフもあり姿も出てきます。渡辺謙は、旗本の次男坊から戯作者になった男の役、どこかであだ討ちする当人を演じたかったと読んだが、年齢の合わないとこの役になったようである。映画を見ていて気になったのは、「何であだ討ちの当事者である菊之助当人に最初に事情を聞かぬのだ?」という疑念だった。小説ではその疑問は最終幕で説明される。映画では、出てきたのであろうか良く判らなかった。 映画は、聞き手の役の柄本佑を追加しないで、原作のようにしたら、一人称映画になってしますからね。映画史の中で一人称映画というと「湖中の女」という作品を思い出すが、あまり成功例はないからね。オランダの映画で「リトル・シスター」が一人称映画だった。ロカルノ映画祭でもフランスの地方都市で生活を青年の目でとられた映画があったのを覚えているが生涯でこの3本ぐらいしか見ていないですね。部分的に1人称という映画はたくさんあるだろうけれど、全編1人称になると実験映画だよね。ちょっと脱線してしまった。